「ねえねえ」と話しかけるような音楽―岡田暁生『モーツァルト』

岡田暁生モーツァルト』を半分くらい読んだ。印象に残った箇所のメモを書く。

気持ちの移ろい

岡田は、モーツァルトが気持ちの移ろいを表現するのに比類なく長けていると述べ、ピアノ協奏曲第 25 番の冒頭を挙げる。

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[...]第一楽章は、壮麗としかいいようのない輝かしい全楽合奏で始まる。力にみなぎり、歓声に包まれて、待ちに待った胸躍る時間が始まる―しかしものの三十秒もしないうち、潮が引くように全楽合奏の歓呼は遠のき、さきほどまで光り輝いていた太陽の前を雲が通り過ぎ、音楽に影が差し込む。短調木管の短いパッセージがそれだ[リンクの 0:35]。このかすかな不安は瞬く間にただならぬ胸騒ぎとなって、いてもたってもいられなくなったかのように、ヴァイオリンが短調で駆け出していく[..., 0:38]。「あの人はどうしている? 大丈夫だろうか......?」―そんな不安に音楽がとらえられる。だが程なくして安堵が訪れる。「ああ......無事で よかった!」と言わんばかりに、今度こそ一点の曇りもない歓喜が爆発する[...]。音楽は冒頭にも勝る力強さでもって幸福を歌い上げる。祝典は果てしなく続く。ここまでわずか一分。なんという感情の陰影、なんという速度、何という流麗!(p. 19)

「理由もなくふと悲しくなるとか、悲しいのだかうれしいのだか自分でもわからないとか、不安が一気に歓喜へ反転する」(p. 20)といった瞬間をモーツァルトは巧みに切り取る。

私たちの日常生活は、100% の喜びに満ち溢れ続けているだとか、どん底の悲しみに沈み続けているといったことは稀だろう。私たちの日々はむしろ、なんとなく気分が沈む瞬間があったり、明確なきっかけもなく楽しい気分に揺り戻されたりして、不安定な気分の浮沈で織りなされているだろう。

そのような不安定な浮沈を、モーツァルトは美しく軽やかに描き出す。

「ねえねえ」と話しかけるような音楽

オペラの依頼が暇なく舞い込んでくる以前の時期に、モーツァルトはピアノ協奏曲で自分の腕前をアピールした。

有名なのは第 20 番以降だ。岡田によればそれらは「プレゼンテーション型」が多い。曲が多くの聴衆の前でプレゼンされる雰囲気を持っているということだ。

対して第 10 番台のいささか隠れた時期のピアノ協奏曲に、プレゼンテーション型とは異なる類のものとして岡田は着目する。

[...]第十二番、あるいは第十五番の口笛を吹くような始まり、第十七番のしなを作るみたいなそれなどは、誰かからふと声をかけられたみたいにして聴きたい。目の前のステージで立派に演奏されるのを拝聴するより、さも誰かがそこに置いてあるピアノで爪弾きを始めたかのように、いつのまにか自分の斜め後ろの方から響きが流れ込んできたかのようにして聴きたいのである。

 こんな風に「自分に話しかけられているような気になる音楽」というものを、私はこの時期のモーツァルト以外にほとんど知らない。きっとモーツァルトは誰かに話しかけたくてたまらない人だったのだろう。自分が音楽さえ奏でれば世界が自分に微笑んでくれる。どんな人でも幸せになってくれる。そう信じて疑わなかったに違いない。実際彼は子ども時代に、神童としてまさにそういう経験をしたのだから。[...]自分の音楽を通して世界中の人と友達になれる―そんな夢がこの時期の彼の作品からは輝き出している。(p. 108 - 109)

言及されている曲の中から第 15 番だけを引いておきたい。

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この曲の始まりが、誰かにふと話しかけるような感じだというのに共感する。

何か折り入って報告すべき重要な話があるとか、ミーティングや歩いている途中に一緒になって口を切る必要があるとかではなく、本当に何もない時にいきなり「ねえねえ」と話しかけたくなる気分が反映されているように思う。

そして、その気分もそんなには長く続かないだろう。「ねえねえ」と話しかけても、何か話したい内容が取り立ててあったわけではない。何か反応が欲しかっただけかもしれない。ものの 10 秒後にはそっぽを向いているかもしれない。

上で述べたような、気分の無邪気な不安定な移り変わりの予感が、第 15 番の冒頭にも表現されているように思う。

おわりに

モーツァルトの曲は軽やかな気分の移動が窺われるものが多いが、しかし彼が必ずしもこうした曲ばかりを書いたわけではなかった。

就活に失敗し母親を亡くし帰り際に彼女に振られるという最悪のパリ遠征を、モーツァルトは 21 歳で経験する。 その時期のピアノソナタは異様に重苦しい。

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この曲は分散和音主調のモーツァルトには珍しく、左手で和音が重苦しく叩きつけられ、ベートーベンを彷彿させる曲調になっている。

モーツァルトはバッハより後、ベートーヴェンよりは前の人で、貴族や教会に仕えて依頼された音楽を作る職人としての音楽家の時代から、自らのいいと思う音楽を押し通す芸術家としての音楽家の時代への過渡期に属していた。

モーツァルトは、こういう時代性もあって、「俺の生き様を見てくれ」というようにプライベートをさらけ出すようなことはないが、しかしプライベートがこういうところに影を落としている。

必ずしも軽やかで平和で何の変哲もない日常的な気持ちの浮沈だけが彼の人生を形作っていたわけではなかった。